内田良『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』

 

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

 

 最近よく話題に上がるので、この本はすでに読んだという方多いかもしれませんね。帯に「巨大化する組体操、虐待無視の2分の1成人式」とありますが、他にも教員の部活指導のブラックな実態、運動部活動の体罰と事故などなど。

 感動や美談の名のもとに、あらゆる教育リスクが覆い隠されてしまっていることを教えてくれる本です。学校の安全性に注目*1が集まる昨今ですが、一方で組体操がだんだんと巨大化してより危険度を増していたり、部活動指導を始めとした教員の残業は一向に減っていなかったり……。ここで私が自説を開陳するつもりはありませんが、世間的には本当に、本当にさまざまな意見が交わされています*2

 

ただ誰がどんな意見を持っているにせよ、この本で学べることは「『感動』や『美談』に流されないこと」ではないかと思っています。この本を読みながらずっと考えていたのですが、感動を排することはやはりかなり難しい。私は学校司書ですから、学校図書館に関する研修や講演会によく参加します。でも不思議なことに、最初は「○○という問題をどうするか」話し合いをしていたはずが、いつの間にかそれぞれの司書の「子ども(生徒)と読書」に関する感動のエピソードの披露合戦にすり替わっていることがあります。終了後はみな満足げな顔で出ていきますし、私自身気持ちが晴れ晴れしていることは否定できないでしょう。ですが、その会では結局何の問題も解決に導けてはいないわけです。普段誰からも仕事が理解されない、待遇がよくならない司書たちが溜飲を下げるだけの集まりになってしまっては、学校、引いては子どもの教育にかかわる問題は一向に改善されていきません。ですが実際にそんな会が今日もたくさん行われているのではないでしょうか……?感動の名のもとに、すべてが足踏みをしてしまっていないでしょうか?

 

学校図書館、学校司書、子どもの読書環境の改善を世に訴える時、感動のエピソードが人の心を大きく動かすことは間違いないでしょう。ただどうしても戦略としての感動の物語を弄する自分(達)に抵抗を覚えずにはいられないのです。一体、自分たちの仕事は何の為に行われているのか。

 

読書日記なのに大きく脱線してしまい、申し訳ありません。以上の理由で、私も「感動」からは逃れられていない、本の中に出てくる人々と同じということが言えるでしょう。そんな私が冷静に物事を見られているかわかりませんが、うちの学校でも部活や生徒指導でほとんど休みのない先生方がたくさんいらっしゃいます。「定時に帰るのは労働者として当然の権利だから自分たち(学校司書)は定時に帰る」はその通りですが、好きで残業をしているわけではない職場の同僚たちを無関係だとか自己責任だとか放っておくことはまた別問題です。これらの問題にもきちんとアプローチするなり、できることを探すことが職場の一員としてのあるべき姿かもしれません*3

*1:余談ですが、学校の教職員の一員として、学校司書としての安全な学校づくりを考える上で日本セーフコミュニティ推進機構(JSC)によるISS認証校の取り組みを参考にさせていただいています。日本のセーフスクール | 一般社団法人日本セーフコミュニティ推進機構(JISC)

*2:特に「組体操」でググるととんでもない数の関係記事が。

*3:そんな理想論を言うな。若手のお前はわかっていない!これを読んでから言え!と仰られる方もいるかと思います。この本でも触れられていますが、学校は地域や親の目を意識せずにはいられません。そんな大変さが互いを思いやれないギクシャクした職場環境を作り上げているのかもしれません。「(学校)司書や養護教諭は楽。教科教員が一番大変だ!」「養護教諭は生徒のためになにもかもやらされて頑張っているのに!一番理解されていない!」「学校司書は子どもの読むを育てるために薄給で頑張っているのに!一番理解されていない」みんなそれぞれに頑張ってるのは知っています。何にも生まない「一番の被害者探し」はできるならやめたいところです。